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観光客誘致としての城の復元

  • honchikojisitenji
  • 2024年8月15日
  • 読了時間: 3分

前にも記しましたが、お城は観光アイテムとしては非常に貴重です。

明治以降に破壊を受けたり焼失したお城の跡を復元する取組があちこちで行われ、また、行われようとしています。

写真は、私の郷里の金沢城跡に復元された玉泉院丸庭園です。残されていた図面を元に新たに造園されました。

金沢城は、明治以降、陸軍の師団本部となり、堀の大部分が埋め立てられて道路等になるとともに、城内には軍の施設が建てられたようです。玉泉院丸庭園も明治の前半に廃絶され、軍の施設地とされたようです。太平洋戦争後は、県立体育館などが建っていたところです。

平成の時代になり、観光客誘致のため、金沢城は江戸期の復元を目指すこととなりました。しかし、城跡は掘れば埋蔵文化財が出てくるということで、たいへんな費用と時間が掛かります。

金沢城は様々な時代の様式の石垣が見られることで有名ですが、正面の石垣の右側は、滝が設えられている色紙(正方形)短冊(長方形)積石垣と言われる貴重な石垣だそうです。庭園が策定される以前は、二代藩主前田利長の正室の玉泉院の屋敷があったらしいですが、その逝去後、屋敷が取り払われ、辰巳用水の掘削により城内に多量の水を引き込むことができるようになって、1630年代に作庭が始められたそうですから、滝のある石垣もその頃に作られたものでしょう。金沢城と言えば城の外庭として兼六園が有名ですが、この玉泉院丸庭園は城の内庭という役割だったようです。この復元の後、ここから、尾山神社につながる鼠多門櫓が復元され、遊歩ルートとして観光客の動線として重要な位置を占めることになりましたが、現在は庭園内には入れないという残念な結果になっています。観光客が増えて、危険が伴うとともに、園地のダメージも想定外に大きくなったのではないかと思います。オーバーツーリズムは観光客誘致の難しさを感じさせます。

こちらは、復元の嚆矢となった菱櫓です。木材を多用した建築物で内覧できます。物見のための死角を減らすための工夫ということで菱形の平面をした特徴的な櫓ですが、外観で菱形を感じるのは難しいと思います。菱櫓は安政年間の建築ということですから、戦時の備えというより、文化的な統治のための建築技術の工夫・発展のために菱形を取り入れたのではないかと思います。金沢城の天守閣は1602年に焼失して以来再建されておらず、この菱櫓は天守閣に変わる城のシンボルとなっています。

現在、この櫓の反対側では、殿様の住まいや政務所であった二の丸御殿の復元が計画されており、そのための発掘調査が行われています。

兼六園~尾山神社につながる金沢城観光開発は県の一大事業ですが、加賀百万石の歴史と文化の香りを感じさせるために、伝統技術を使い、その伝承の役割を果たすこととなっています。また、観光だけでなく、市民、県民のシンボルという意味もある複合的な意義を持っていますが、地域の創造としての効果はどうなのか興味深いところです。

 
 
 

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