土地の歴史
- honchikojisitenji
- 1月12日
- 読了時間: 2分
年末年始で、少し間が開きましたが、今年もよろしくお願いいたします。
地域の創造を考えるに当たっては、その土地が持つ自然、人・社会、文化などの面からの特徴を知ることが重要です。そして、それらには過去の歴史もあります。自然史、生活史、を社会史、文化史と言われるものです。ひっくるめて郷土史と呼ばれることもあります。それらを知ることは地域の今を理解するために必要な面もありますが、その地域の創造の機軸として歴史を位置づけることもできるかもしれません。
写真は国分(現霧島市)にある上野原縄文の森という遺跡公園です。上野原遺跡は日本でも有数の縄文早期前葉(約1万600年前)と言われる時代に定住化したムラの遺跡です。


国分市街の東側の台地の上に広がる遺跡で、資料館とともに集落の建物が一部復元されて
います。そして、縄文人が糧と資材を得ていたと思われる森、樹木との関係を重視して、当時生えていたと推定される樹木や森も配置された公園となっています。
上の写真のこんもりとした丘の地下には、発掘された竪穴住居跡が展示保存されています。この土地では、縄文j時代晩期(約3200年前)、弥生時代中期~後期(約2400年前)、古墳時代(約1600年前)の住居跡が発見されており、住居跡が発見されていない時代も狩場や祭祀などに使われた跡が発見されています。何らかの形で人が暮らし続けてきた土地と言えると思います。しかし、桜島や霧島の火山の噴出物により集落が埋まり放棄せざる得ない時代があったことも窺い知れる遺跡のようですが、台地の中腹部を巡るように湧水がある土地であるため、水の便、平坦な地形に恵まれていたことが暮らし続けられた理由ではないかと思います。
現在は台地上の平坦地は畑と森と新しい工業団地になっていました。もちろん、今でも住宅はあるものと思いますが、台地を構成する斜面の傾斜も急なので、国分の海岸沿いの平野部への交通の便は良くなく、大きなマチにはなれなかったようです。
この地域は「花はきりしま、たばこは国分」とおはら節の一番に謡われるような地であり、温泉もあり、霧島連山の自然、桜島の眺望、霧島神宮などの観光名所もありますし、京セラの企業城下町的な側面も持っています。ですから、この歴史が地域の創造に特別に関わっているような感じではありませんが、今後、このような土地の歴史の側面にも注目して地域の創造を考えていきたいと思います。
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