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和歌山県田辺の人工林

  • honchikojisitenji
  • 2024年3月2日
  • 読了時間: 2分

去年秋に行ってきた和歌山県田辺市の山長商店の持山です。

手前と奥は風倒被害の跡地です。自然の恵みをいただいて長く山を経営する中で、自然の脅威はいつか必ず襲ってきます。風や雪、火事、雨など。100年以上、その自然の脅威に耐えられるように人工林づくりをしてきたのでしょうが、近年の気候変動によって自然の脅威も極端化しており、今まで以上の自然の脅威に耐えられる森にしていく努力が必要になっているのかもしれません。

山長商店は和歌山県きっての山持さんです。製材工場、プレカット工場も整備しており、生産した木材を首都圏の工務店などに販売しています。山から木材を一貫生産して、建築資材を供給しています。


下記は、山長商店のメールマガジンの引用です。

江戸時代から炭の販売を始めていた山長の歴史を振り返っています。

スギ、ヒノキの人工林林業を本格的に始めたのは明治になってからのことのようですが、輸入材の生産基地であった田辺にあっても、持山資源を活用した国産材の生産を続けてきました。

年明け早々に起きた能登半島地震で被災された方々に思いを寄せています。亡くなられた方のご冥福を祈ると共に、早期の復興を心より願っております。2024年、2通目となる山長商店メールマガジンは、時代の変化に合わせて山長商店が歩んできた歴史をお伝えするシリーズ第2回目「成長と近代化」です。

※山長の歴史 第1回「変革と創業」の記事はこちら

今回は、明治維新を経て、藩政時代の保護管理政策から自由化政策へと転換期を迎えた頃のお話です。


1901年(明治34年)、山長商店8代目となる榎本傳治が商売を継承し林業を拡大させました。1950年(昭和25年)には、9代目榎本長平が有限会社山長商店を設立します。


山からの木の搬出は河川での流送。新宮、古座、日置、御坊など河口近くの町は木材集散地として栄え、機械製材工場が出現しました。


集積用架線の動力がディーゼルエンジンに、製材工業が木挽から機械製材へ変わるなど、木材界が近代化へと舵をきった時代です。山長商店の歴史をHPで紹介しています。「成長と近代化」の詳細は、下記をクリックしてご覧ください。



上の写真は山長商店の持山の伐採現場です。急な傾斜と岩だらけの山肌にヒノキがびっしりと生えています。60年くらいの木でしょうか。あの一番上まで、歩いて登って架線を張り、立木を伐採し、吊り上げて運び下ろしています。危険な作業も多いのです。

山長の山はこんな傾斜と岩場のところが多いようです。私が今まで見た4か所の山のうち3か所がそうでした。このような条件のところで植えた木をしっかりと育てることは、山づくりする者にとっては、自然と向き合いながらたいへんやりがいを感じられる知的な作業です。そしてその困難さを思うとき、この大きく育った木材が広く世の中に出て、長く使われ続けていくことを願わずにはいられません。

このように自ら育て上げた地域資源を活かして地域の創造ができる林業という生業が今後も継続していくことを目標にしていきます。

 
 
 

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